吉田喜重監督の言葉に寄せて

 今日、8月21日、47歳の誕生日を迎えました。最近はまた少し悩みの多い日々を過ごしてきました。これからの生き方を考えることが多いです。数年前、数百万の金銭問題に巻き込まれ、思い詰めて死んでしまおう、と一瞬考えてしまうことがありました。もちろんそれは、一時の衝動でしたが、その後、たかだか数百万で死のうと思うぐらいの自分のちっぽけさに嫌気がさしたものです。

 もともと高校生の時に、それなりの進学校で生き方に悩み、そんな折に石山寺の多宝塔を見て、芸術が解放する何かに気付いてから、人の幸せをつくる空間の設計をする建築家を志しました。世界をつくりたい、しかし学生を終える段に感じた自分の実力不足、それを補うためにスリランカに就職し、世界を旅しながら、自分ではない誰かのために生きようと考えてきたのに。今の自分を見ると情けない気持ちになります。

 最近学生たちに、「世界は、社会は変えれるから。そのために大学で学んでいるんだよ」と言うことが増えたのは、そういう自分への反省の言葉だったのでしょう。

 日本国際観光映像、Yokosuka1953、こういうチャンスを活かしきれていない自分自身のふがいなさにも落ち込みます。戦後混乱期の女性、混血児たちの苦しみと悲しみを知ったはず、それを伝える役割を担ったはずなのに、映画を十分に育てあげることができていません。いつでも忘れ去られるような映画です。世界を変えることができていません。

 そんな小さな自分がいました。卑屈になる自分がいました。

 昨年末に亡くなられた吉田喜重監督からYokosuka1953に頂いた言葉がありました。自分の中だけに秘め、あまり表には出してきませんでした。しかし、今はこの言葉を頂いたことを掲げて自分の中の覚悟を決めたいと思います。47歳になった今、この言葉とともに生きていくことを決めました。

 世界を、社会を変えていく。この希望は私を生きさせた願望です。社会を知れば知るほど、それがいかに困難なことか、無謀なことか、思い知らされます。いい大人は口にしない言葉となります。そしてまだまだ私自身の周りにも困難が山積です。しかし、そんな想いがない学者、映画監督であってはならない。あえて自分を映画監督と呼びます。その覚悟を決めました。

 吉田喜重監督は作品製作に必然性を求める方でした。作品を撮る資格が自分にあるのか、ないのか、それを考える方でした。そして最後まで、世界を変えようとした監督でした。

 世の中に絶望し、それでもそこに希望を描いていく映画監督であろうと思います。ただただ47歳になった今日に、これからの自分について書いてみました。

Yokosuka1953 監督 木川剛志

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次