函館で生まれ、戦後混乱期に埼玉県所沢市で暮らし、4人の「混血児」の母となった本田章子。彼女の娘として生まれ、養子縁組で渡米した本田和美。そして、自身に日本のルーツがあることを知り、日本滞在中に祖母を探そうとした、和美の子、ジョージ。
この家族の物語は、当初『横須賀1953「混血児」洋子=バーバラの物語』に収録予定でした。しかし、本編の文量が日に日に増え、やむなく収録を見送ることになりました。この「捜索」のために、北海道函館市、大分県、千葉県、埼玉県と多くの場所を訪れました。その成果は──。
この物語を加えたかったのは、洋子の物語が多くの混血児の物語の一つであったことを示したかったからです。そして、養子縁組のその先に、幸せになった「混血児」がいたことを伝えたかったのです。

横田基地に住む女性からのメッセージ
2021年11月19日、『Yokosuka1953』が映画祭で受賞したというニュースが、少しずつ広まり始めていた頃のこと。私のことを記事で知ったという横田基地在住の女性・稲田有紀子さんから、Facebook経由でメッセージが届いた。有紀子さんの夫は米空軍の退役軍人であり、その元上司であるジョージ(仮名)という男性が、自分の祖母を探しているという話だった。
ジョージの母・本田和美(仮名)もまた、1954年に混血児として生まれ、養子縁組で渡米した女性だった。ジョージは日本駐在している間に日本にいるはずの自分の祖母を探したいと思いながらも手がかりがなく、どうすればいいのかわからず、困っているという。
「私にできることがあれば」と返答すると、ジョージから和美に関する資料が送られてきた。その中には、和美の母・本田章子(仮名)の名義で記された母子手帳や、和美が幼い頃に撮影された写真が含まれていた。わずかな書類から判明したのは、母・章子の本籍地が北海道函館市であること、そして娘・和美を埼玉県所沢市で出生したという事実だけだった。和美自身の本籍地もまた、母と同じく北海道函館市に置かれていた。
資料は限られていたが、私は横須賀での調査経験から、実母の名前、本籍地、本人からの委任状があれば除籍謄本の取得が可能であることを知っていた。除籍謄本があれば、母・章子のその後の足取りを追うことができるはずだ。
このことを有紀子さんを通じてジョージに伝えると、「ぜひ探してほしい」と依頼を受けることになった。私自身は調査費用を受け取らない旨を伝え、あくまで仕事の合間の調査となるので、時間がかかることだけはあらかじめ了承してもらった。
ジョージの母である和美は、アメリカ人に養子縁組される際に「リサ(仮名)」という名前になった。驚くべきことに、彼女は養子縁組の際に生き別れとなった兄とはすでに再会することができていた。実兄・ダニー(仮名)も、和美とほぼ同時期に別の家族に養子として引き取られ渡米。リサとは長年別々に暮らしていたが、何らかの手段を通じて再会を果たしたらしい。
そして、リサの署名入りの委任状が届いた。いよいよ調査を開始する。
雪の残る函館
2022年3月。例年通りに主催している映像祭が終わり、年度末を迎えた私は、まだ雪の残る函館空港に降り立った。空港近くの湯の川温泉に宿を取り、それまでに集めた資料を眺めていた。
章子の本籍地は、函館市天神町と記されていた。その住所表記はすでに古く、現在では存在しない地名ではある。ただし、インターネットで調べたところ、おおよその位置は特定できた。その近くには歴史的建造物でもある「函館市地域交流まちづくりセンター」がある。建物の見学も兼ねて、そこを訪れてみれば、何か手がかりが得られるのではないか──そう考えた私は、路面電車に乗って「湯の川駅」から「十字街駅」へと向かった。
まちづくりセンターに入り、窓口の職員に声をかける。
「人を探しています。その方の本籍地が天神町という昔の表記の住所なのですが、現在はどのあたりにあたるのでしょうか?」
「人探し、ですか? 申し訳ありませんが、個人情報保護の観点から、お答えできません」
唐突な返答に私は驚いた。過去の住所表記がなぜ個人情報に当たるのだろうか。図書館などで調べれば、公に公開されている情報のはずだ。おそらく「人探し」という言葉に警戒されたのだろう。質問の仕方がまずかったのだと反省し、あらためて自分なりに目星をつけ、天神町があったと思われる地区の最寄り駅「函館どつく前」へと、再び路面電車で向かった。
「函館どつく前」。関西育ちの私にはびっくりするような驚く駅名だった。「どつく」とは「殴る」の意味ではなく「ドック」の古い表記らしい。
駅に着いた。海の近くのはずだが、海は見えなかった。海の方向には造船工場や倉庫が立ち並び、反対側には函館山へと続く丘陵地が広がっている。天神町は、その丘陵の中腹に位置しているはずだ。まだ雪の残る坂道を上っていく。
不思議な街だ──北海道の住宅街は、私の目にはいつも新鮮に映る。古くからあるようでいて、新しくもある。街路は広く、近年に整備されたかのように見える。実際、建物の多くは新しい。一方で、街のあちこちに、戦前から建っていたような朽ちた住宅も残されている。すでに商売をしていない商店の跡も点在して、この街をどう理解すればいいのか、私にはわからなくなる。
しばらく街を歩き、丘陵地の中腹まで進むと、広い道路が交差するところに「旧町名 天神町」と刻まれた石碑が立っていた──ここだ。そこからは函館湾を望むことができた。遠くの山々にはまだ雪が残っていた。

寒空の下、住宅街。誰も歩いていない。地図アプリで周辺を検索すると、近くに酒屋があることがわかった。土産に酒を買うついでに、この街のことを聞いてみよう。
店に入ると、私よりも年上と思われる女性が「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。
「大学で研究者をしている者です。この地区の歴史を知りたいと思い、ここまで来ました。天神町に昔、住んでいた家族を探しているのです」
そう告げると「そうなのですね。父ならば昔のことを知ってると思います」と奥へと消えた。
しばらくして、高齢の男性が、店の奥から大きな冊子を抱えて現れた。そして店内の接客用の椅子にゆっくりと腰掛ける。
「これは昔の住所表記の地図だけど、その人の本籍地はわかる?」
「はい、わかります」
優しく尋ねてくれたことに安心し、二人がかりで大きな冊子を机に広げながら、本田章子の本籍地を探す。
「本籍地の場所は、今は小学校になっているところだね」
住宅が小学校になる──想像しにくいことだったが、確かにその場所は今は小学校だった。どんな事情でそんなことが起こるのだろうか。
「このあたりは昔はどんなところだったんですか?」
「造船所で働く人たちの長屋が並んでいたよ。何人かは覚えているけど……『本田』って名字は、聞いたことないな」
「そうですか……ありがとうございます」

店を出て、本田家の長屋があったであろう場所に向かう。その途中に古い長屋があった。生活感が無かったので、おそらく空き家なのだろう。小さな家屋で、子供がいるような家族が生活するには狭いように見えた。
本田章子の本籍地として記されている住所に建つ小学校にたどり着いた。校舎こそ残っていたが、すでに廃校となっていた。その門の前を通り過ぎ、さらに坂を上がっていくと、大きな寺院がいくつも並んでいた。その門前に、ひとつの花屋があった。
その花屋で事情を話すと、昔からこの地に住むという高齢の女性と話をすることができた。彼女の話によれば、目の前にある小学校は、かつて空襲で焼けた場所に建てられたのだという。「空襲」──その言葉を聞いた瞬間、私は思わず身構えた。空襲の被害──そのために、章子の家族は所沢に移住することになったのだろうか。
再び路面電車に乗り、函館市役所に向かった。手元にはリサからの委任状がある。手続きは事務的で、驚くほどあっけなく進み、除籍謄本が交付された。
その除籍謄本の記述から、本田章子の足取りを、わずかながら掴むことができた。
秋田から移住してきた家族
章子の父・四郎(仮名)は、現在の秋田県由利本荘市に四男として生まれた。大正10年4月、父の死により家督を継いでいた同郷の本田辰子(仮名)の家に婿入りし、本田家の戸主となった。その半年後、10月には戸籍上の住所を北海道函館市天神町に移している。当時の戸籍の所在地から推測すると、造船業あるいは港湾関係の仕事に就くための移住だったのだろうか。その後、夫妻は多くの子宝に恵まれている。おそらく、天神の長屋が手狭になったのだろうか、住まいは函館市大縄町へ移っている。時期を見ると、太平洋戦争よりも前のこと。空襲の被害が、移住の理由ではなさそうだ。
しかし、本田四郎は昭和16年12月30日、四十四歳で亡くなる。章子が十八歳の時だ。家督は長男である章子の弟が継いだが、彼はまだ十四歳だった。
本田家には、夭折した子を含め、男三人、女五人、計八人の子がいた。長女はすでに亡くなっており、次女の章子が子供たちの中で最年長だった。父を失い、幼い弟妹たちを支えなければならなかった章子の両肩には、相当な重荷がのしかかっていたに違いない。
昭和21年12月、今度は母が亡くなり、長男が死亡届を埼玉県所沢市に提出している。その頃には、一家は大黒柱を失い、函館を離れていた。誰を頼ったのか、埼玉県所沢市に移住していた。
ここに、章子の波瀾万丈の人生の一端が、わずかに垣間見えた。
四人の子供
本田章子は、昭和25年10月1日、「出生の届出」により、自らを戸主とする新しい戸籍を編製している。最初に生まれたのが長男・ダニーである。続いて昭和27年2月9日には和美──後のリサ──が生まれている。いずれも出生地は埼玉県所沢市で、戸籍には父親の名は記されていない。
ここまでは、事前に聞いていた内容と一致していた。しかし、新たな事実が明らかになった。昭和28年9月15日に次男・章弘(仮名)が、昭和31年1月15日には三男・一義(仮名)が生まれていたのだ。章子は四人の子供の母となっていた。
長男ダニーは昭和29年12月9日に、和美も同じく昭和29年12月9日に、さらに、三男も昭和31年5月22日に、それぞれアメリカ人の家族に養子縁組されている。ただ一人、章子の名から「章」を取ったと見られる次男・章弘だけが母のもとに残っている。
章子は、昭和56年3月16日、婚姻届を提出したことにより、千葉県郊外へと除籍されているが、その際、夫が章子の籍に入る形で新しく戸籍が編製されている。
ジョージの話によれば、ダニーと和美は混血児として生まれたという。となると、この二人が養子に出されるまでに生まれていた次男・章弘も、同様に混血児だったのであろう。そして、三男もアメリカに養子で渡っているので、おそらく混血児だったのだろう。つまり、四人の子供が全て混血児だった。──いずれの戸籍にも、父の名前は記されていない。
これは何を意味するのか。多くの情報がありすぎて、思考が少し混乱していた。
四人の子供の父親は同じ人物なのか。そして、なぜ次男・章弘だけが母のもとに残されたのか──。

横田基地
わからないことが多すぎた。それでも、ここまでの調査結果を伝えるために、ジョージに会いに横田基地に向かうことにした。彼とはまだ一度も顔を合わせたことがなかった。
有紀子さんが最寄り駅まで迎えに来てくれて、一緒に横田基地のゲートへと向かった。横須賀でも調査を行ったが、米軍基地の構内に入るのはこれが初めてだった。和歌山を出るときに、パスポートを忘れていないか、何度も確認した。
ゲートでのセキュリティチェックを通過すると、そこには日本とは思えない、まるで異国のような街並みが広がっていた。ジョージはすでに除隊しているが、かつては軍に勤務していた人物だ。彼の妻は現役の高位軍人で、家族とともに横田基地内で暮らしている。
彼女が所属する部隊の建物へ向かうと、ちょうどそのとき、アメリカ副大統領の乗った航空機が基地に着陸し、そのまま軍のヘリコプターに乗り換えて東京中心部へと向かっていく場面に遭遇した。その光景を、軍服姿の兵士たちと並んで、興奮しながら見ていた。
ジョージに会い、これまでの調査結果を報告した。彼にとっては予想外の内容だったようで、驚きとともに受け止めていた。リサとダニー、二人の兄妹の存在は知っていたものの、それ以外にも子供がいたことは、まったく知らなかったという。
ちょうどその日は妻が、沖縄に出張中で、ジョージには子供の世話があった。彼は慌ただしく別れを告げると、足早に家へと戻っていった。
その後、有紀子さんの案内で横田基地を歩いた。彼女の夫と娘とも合流し、基地内のレストランで一緒に食事をとった。食事をしながら、基地での暮らしについて話を聞き、和歌山に戻った。
次の調査だ。しかし、すでにリサから預かった委任状は函館市役所に提出していたため、新たな委任状を用意してもらう必要にあった。その旨を有紀子さんに伝えたところ、あれから調査そのものの方向性が変わりつつあることを知らされた。
リサは、ダニーのほかにさらに二人の弟がいたと聞かされたことに、大きな衝撃を受けたらしい。それまでは、日本にいるはずの母について知ること、そして可能であれば会うことを楽しみにしていた。だが、その事実を知った直後に「これ以上、新たにわかったことは何も伝えないでほしい」とジョージに言ったそうだ。ここで調査は、終了かと思われた。
しかし、ジョージの意思は固かった。彼は自分の親族に会いたかったのだ。リサに何も伝えないことを条件に、もう一通の委任状を取り寄せていた。
不可解な死
章子が結婚して本籍地を移した先は、千葉県の郊外の街だった。事前に当地の市役所に電話をかけ、除籍謄本の交付に必要な書類について確認をした。他の自治体では、本籍地の記載された住所、直系親族からの委任状、そして委任を受けた者の身分証明書があれば十分だった。ところが、この役所ではそれに加えて和美の出生証明書の提出を求められた。有紀子さんに確認すると、アメリカでは出生証明書の発行には高額の手数料がかかるため、通常は原本を大切に保管し、そのコピーを提出するのが一般的だという。しかし、この役所はコピーでの提出を一切認めず、原本での提出を頑なに譲らなかった。
さらに、担当者は「日本にあるアメリカ大使館にいけばそこで発行できます」と説明したが、それはあくまで日本で生まれたアメリカ国籍の子供の話であり、和美のようなケースには当てはまらない。
一時は手続きが暗礁に乗り上げたかに思えたが、「そこまで厳格に求められることはないのでは」と判断し、出生証明書を持たずにそのまま窓口に向かうことにした。すると、問題なく申請が通り、除籍謄本は無事に発行された。あのやり取りはいったいなんだったのだろうか。
そのように発行された謄本には、章子についての次のような記載があった。
平成元年三月六日 推定午前二時死亡
亡くなっていた──亡くなっていることは想像していた。しかし、言葉を失ったのは、次の事実だ。章子の夫の欄にも、まったく同じ日付と時刻に死亡と記されていた。「どういうことだ?」死亡届の届出人は、章子のもとに唯一残った息子、章弘の名前だった。
すぐに有紀子さんに電話をかけ、この事実を伝えた。ただ、あまりにも衝撃の大きい内容だったため、彼女と相談して、ジョージには「章子が亡くなっていた」事実だけを伝えることになった。
最後の時の証言
夫婦二人が同時に亡くなる──一体、何があったのだろうか。その答えを求めて、私は章子が亡くなった場所を訪ねることにした。
千葉県郊外。駅からほど近い場所に、該当する住所があるはずだった。しかし、その住所表記もすでに古く、現在の地図では正確な位置を特定できない。
偶然、道端で水を撒いていた喫茶店の店主に声をかけ、その住所について尋ねてみた。だが、まったくわからないという。代わりに、「近くに公民館があるから、そこで聞いてみたらどうですか」と教えてくれた。
その助言に従い、近くの公民館を訪ねると、古い住宅地図を紹介してもらえて、ようやく住所の現在の位置を突き止めることができた。しかし、それは思っていたよりも、かなり離れた場所にあった。
その場所に向かう。章子が最後に住んでいた住所の近く、数人の女性たちが井戸端会議をしていた。その輪に加わり、話を聞いてみる。最初は好奇心をもって耳を傾けてくれていたが、章子がかつて住んでいた住所を告げた途端、彼女たちの表情が曇った。
そして口々に、「知らないですねぇ」とだけ言った。
ようやく、探していた住所にたどり着いた。そこにはどこにでもあるようなプレハブ住宅が並んでいた。人の気配はない。その家の向かいには、それとは対照的に生活感のにじむ使い古された住居があった。誰かが中にいるような気がする。思い切ってその家の扉をノックし、「すみません」と声をかけると、高齢の女性がゆっくりと扉を開けて「なんですか?」と応じてくれた。
「昔、ここに本田さんという方が住んでいませんでしたか?」
女性ははじめ、首を横に振った。しかし、「ひょっとしたら」と思い、私が夫の名字を伝えると、彼女ははっとしたように顔を上げ、「ああ、あの夫婦ね」と答えてくれた。
淡々とした口調で、彼女は語った。しかし、だからこそ、その言葉は一層、衝撃的だった。
「昔、あの家は私の親の持ち家だったの。あの夫婦は、そこを借りてたのよ。ある日、新聞配達の会社の人が訪ねてきたの。彼女たちはそこで働いていたの。そのあと、喧嘩するような声がして、叫び声がしたと思ったら……それから火が出たの」
火が出た。その状況からは、単なる失火とは思えなかった。
「二人のことは、よく知らないわ。家賃をもらうときに顔を合わせたくらいで、それ以上のことは話してくれなかったから」
重い気持ちで、私は道を引き返した。
先ほど井戸端会議をしていた女性の一人が、帰り道に立っていた
「先ほどはありがとうございました。あの家の大家さんと話ができました。大家さんに聞いたんですが、夫婦は火事で亡くなったそうですね」
そう声をかけると、女性は頷き、「そうなの。そこまで聞いたのね」とだけ言い、会釈をして足早に去っていった。
章子が、どのような事情で亡くなったのかは、今もわからない。心中だったのか、事故だったのか——それすらも定かではない。
しかし、函館から彼女の足取りをここまで追い、その終着点にたどりついたとき、私は、彼女の人生に思いを巡らせざるを得なかった。
もし、違う人生を歩んでいたら。
もし、違う場所で、違う人と出会っていたら——
彼女には、違う生き方も、違う死に方も、あったのではないか。
最後に火に包まれたとき、彼女は、はたして、自分の子供たちのことを思い出したのだろうか。
日本にいるはずの弟
亡くなった章子の墓に、せめて孫であるジョージから花を手向けたい──。
そのため、これまでに集めた情報から、なんとかその手がかりを探そうとした。兄妹の中でただ一人日本に残った次男・章弘の所在を探した。
彼は昭和48年に結婚し、母と同じ千葉県内の地方都市に戸籍を編製している。私はその記録を頼りに、戸籍の住所を訪ねることにした。
その住所の最寄り駅に到着し、バスに乗ろうとしていたときだ。ふと後ろを振り返ると、初老の夫婦がゆっくりと歩いているのが目に入った。女性は日本人のようだったが、男性は一見して外国人のような風貌だった。「もしかして…」と思い声をかけようとしたその瞬間、バスの発車ブザーが鳴ったので、おもわず私はそのまま乗り込んでしまった。それを今も少し後悔している。
バスを降りて、目的の住所に着くと、そこには古い木造の家屋が残されていた。その家の大家にも会うことができたが、すでに高齢で、昔のことを聞き出せる状況ではなかった。
仕方なく、近くの鰻屋で昼食をとることにした。これは実は、土地の調査をするときのちょっとした「技術」でもある。日本では法事や親戚の集まりなどがあると、鰻を注文する習慣がある。そのため、意外と鰻屋は地域の家庭の事情に詳しいのだ。
もちろん、いきなり本題には入らない。まずは世間話から始め、相手の方から「どうして和歌山からこんなところまで?」と興味を持ってもらえたら、次の段階へと進む。
今回もその作戦はうまくいった。鰻屋の店主がこちらの話に関心を持ち、地元の古い事情を知る人物を紹介してくれた。しかし、章弘を知っている人には出会えなかった。
おそらく、彼がかつて住んでいた家は小さな借家だったため、そこでの暮らしも短期間だったのだろう。そのため、地域の記憶に彼の名は残っていなかった。
大分、そして、和歌山
章弘を追う線は、やはり難しかった。
そこで次に目を向けたのは、章子と同じ日・同じ時刻に亡くなった彼女の夫だった。彼は大分県の出身であり、その本籍地を調べてみると、かなりの山間部に位置していた。こうした地域であれば、かえって情報が得やすいのではないか——そう考え、大分での映画祭に参加する機会を利用して、その地を訪れることにした。
目指す場所は、観光地として知られる「双子観音」の近く。周囲には空き家が並び、すでに人の気配が失われつつある、過疎化の進んだ山間の集落だった。現地に着いてみると、目的の住所はあっけなく見つかった。

だが、その家には誰も住んでいなかった。周囲に人家も少なかったが、すぐ近くに一軒だけ、生活の気配がある平屋があった。そこに住む人物に声をかけてみると、幸いなことに、章子の夫の親族を知っているという。その方の紹介で、近くに住む親族に話を聞くことができた。
親族に聞くと、章子の夫を知る人は多くが亡くなっているが、妹が存命だという。その妹は章子と章子の夫の「葬式に参加したことがある」らしい。そしてなんと、その女性は和歌山市在住だった。それも、私の勤務先である和歌山大学のすぐ近くだった。
思いがけない地元でのつながりに私は驚いた。そして和歌山に戻ってから、教えられた電話番号に連絡を取ると、彼女はこう語った。
「葬式には出ました。でも、それは東京に住んでいた妹に連れて行ってもらっただけで、場所もよく覚えていないんです。昔のことだから……何もわからないんです」
それだけだった。
なぜか私からの電話があることを知っているようなそぶりだった。すでに、親族の間で、そう答えることが決まっていたのかもしれない。
最後の望みとして、章子と彼女の夫が生前に働いていた新聞配達の勤務先を当たってみることにした。当時、その地区で配達業務を請け負っていたと思われる新聞販売店を、知り合いの記者に相談して突き止め、連絡先を教えてもらった。私は、その番号に電話をかけた。
だが、返ってきたのは、想像を超える拒絶の声だった。
「怪しい電話じゃないでしょうね。そういうことには一切対応できません。二度と電話をかけてこないでください」
電話は、一方的に切られた。
その瞬間、わずかに残されていた手がかりも、すべて途切れた。
もう、章子の足跡をたどる術は──どこにも残されていなかった。
奇跡は、起こらなかった。
その後
稲田有紀子さんから、ジョージがアメリカへ帰国することになったと連絡があった。章子の死──そしてその影から浮かび上がったのは、ジョージの混血児の母が生き別れた弟の存在だった。しかしその後、旅を重ねて探し続けたものの、結局のところ、何ひとつ見つけることはできなかった。
しかし、本当はどこかに「答え」はあるのだ。木川信子の足跡を追ったときも、結局は、日本のどこかで眠っていた「答えが記された書類」を見つけただけのことだった。しかし、たとえ委任状を持っていても、取得できるのは本人の直系の親族の除籍謄本に限られる。きっとジョージの叔父は日本のどこかにいる。その答えもどこかにある。だが、その答えは、法の壁によって覆い隠されたままだ。
いつも思う。この法律は、いったい何を守ろうとしているのだろうか。親族であっても閲覧できない戸籍謄本が存在する理由は、果たして何なのだろうか。
横田基地へ、ジョージに会いに行った。それはお詫びの旅だった。有紀子さんと一緒に基地の中のカフェで待っていると、引っ越しの準備に追われ、少し疲れた様子のジョージがやってきた。
彼は「感謝している」と言いながら、母・和美のことを語ってくれた。戦後混乱期の頃だ、和美が養父母のもとに引き取られた当時、ひどく痩せこけていたことを、ジョージは祖母から聞いていたという。しかし、彼女はその後、愛情深い養父母に育てられ、大学にも進学することができて、今も幸せな生活を送っている。
──幸せな養子縁組も、確かに存在していたのだ。
「これは特別なものだ」と無造作にジョージは私にウイスキーのボトルを差し出した。それは調査への報酬だったのかもしれない。だが、私はまだ探している。時間はかかるかもしれない。それでもジョージの叔父を見つけ、本田章子がなぜ、あのような悲しい死を迎えなければいけなかったのか——その理由を聞きたいと思っている。
ウイスキーを開けるのはその時だ。それまでは研究室の片隅にそのボトルは置いておく。
それを飲む時が来れば──しかし、そのウイスキーの味はおそらく苦いものなのだろう。


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